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最低限チェックすべきラッパー:G [HIP HOP]

ABC順で紹介している最低限チェックすべきラッパーシリーズ。
Aは アトライブコールドクエスト
Bは ブラックアイドピーズ
Cは COMMON
Dは DE LA SOULと DR.DRE
Eは Eminem
Fは Fugees

今回はG
Gang starrだ。


ギャング・スター。
ギャング・スター(Gang Starr)は、アメリカのヒップホップデュオ。

Gang Starr
マサチューセッツ州 , ボストン
ジャンル イースト・コースト・ヒップホップ

活動期間 1985年–200
旧メンバー Guru
DJ Premier
メンバー 編集

グールー - 1961年7月17日生、2010年4月19日死去

DJプレミア - 1967年5月5日生


1985年結成の伝説的ラップデュオ。2005年の解散までの間、8枚のオリジナルアルバムをリリースしており、  1998年に発表した『Moment of Truth』では、初のゴールドディスクを獲得している。






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グールーは米ボストン出身DJプレミアとともにギャング・スターを結成、1994年のアルバム"Hard to Earn"を筆頭に数々の傑作をリリース。個人名義でも多数のジャズ、ソウルアーティストと共演した"Jazzmatazz"シリーズを発表していた。

グールーは、亡くなる1年ほど前から多発性骨髄腫いわゆる「血液のガン」などと呼ばれる疾患を患っており、2月28日に一度心臓発作で心肺停止となり、緊急手術を受けたが、意識不明となった。


一時期意識が戻ったとも伝えられたが、4月19日、死去。
多くのファンや関係者に悲しみが襲った。



この知らせで国内ヒップホップ・シーンの重鎮Zeebraは「GURU素晴らしい音楽をありがとう。JAZZMATAZZがあったから、ヒップホップがちゃんとした音楽として認められたと思います。大人になっても聞けるって、自分も一生やれる音楽だと確信出来ました。一生やります。Rest In Peace……」とTwitterに投稿し故人を偲んだ。

DJPREMIERBLOGなどがグールーが書いたという

「ファンへの手紙」はギャングスターは不仲なのでは?と説があがった。

現在のビジネスパートナー、ソラー(Solar)とその家族を自分の家族と同様に扱うよう求める一方、「自分の‘元DJ’(DJプレミアのこと)には、一切自分の名前やそれに類するタイトルを使ったイベント、トリビュートをさせたくない。これは自分が弁護士を通じて、法的に実行させる。彼はここ7年間、自分の人生とは関係がなかったし、自分の死についても何もさせたくない」などとDJプレミアを徹底的に排除する内容となっている。
しかし、これは本当にグールーが書いたのか?わかっていない。

 
これはファンとしてはグールーが書いたものではない事を願いたい。ギャングスターが不仲なんて信じたくないからだ。


ギャングスターはグールーが肉や血であり花だった。つまり表舞台へ魅せる役目を担っていた。

一方ギャングスターの骨はDJプレミア(DJ Premier)だろう

1966年3月21日 生まれ

プレミアはテキサス州ヒューストン生まれのDJ、音楽プロデューサー。

通称プリモ(Primo)

アメリカのヒップホップ界を代表するプロデューサー(トラックメーカー)である。



高校を卒業後、テキサス州ヒューストンの大学に入学し、コンピューターサイエンスを専攻。

大学寮にいたときクラスメイトが所有していたターンテーブル(TechnicsのSL-1200)を拝借し、DJとしての技術を鍛錬しながら、自身のファーストネームの頭文字にちなみWaxmaster Cと名乗る。


その後、Inner Circle Posseという音楽グループを組み、有名になるべくレコード会社のWild Pitchへデモテープを送る。

ここがプレミアの転機だろう

このデモテープを偶然聴いたグールーがこの無名の男DJプレミアの才能に驚き、電話をかけニューヨークに呼び寄せ、ギャング・スターの正式なメンバーとして採用してしまう。
  


デビューアルバムは1989年の「No More Mr. Nice Guy'」。
グールーは、この当時の出来事について 「普段ならデモテープなど聴かないし、ましてやテキサスの無名の奴らなんて気にも留めない。だけどあの時は何かが俺を動かしたんだ。」 と運命の出会いを語っている。



プレミアのビートは間違いなく今のヒップホップの礎だ。
DJプレミアの凄さはビートの隙間にあると感じる。

微妙な間とシンプルな上ネタ、ストップ&スタート、カットやスクラッチ。

純ヒップホップを作れるのがDJプレミアの凄さだろう。



それとグールーの柔らかく鋭いラップは唯一無二。
日本のクラブでとあるDJが自分の持ち時間約一時間を全てギャングスターで繋いでいた時は驚いた。

そこまで熱狂的なファンが日本にも多い。

ギャングスターはどの曲が一番という事ではなく、とにかくアルバム一通り聞いて感じてもらいたい。


そんなアーティストだった。


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最低限チェックすべきラッパー:E [HIP HOP]

ABC順で紹介している最低限チェックすべきラッパーシリーズ。
Aは アトライブコールドクエスト
Bは ブラックアイドピーズ
Cは COMMON
Dは DE LA SOULと DR.DRE

そして今回紹介するのはE

Eminemだ。

エリックサーモンも候補にあがったが、ドープ過ぎるので最低限チェックすべきラッパーの後にチェックしてく!

ポップスターでもありヒップホップスターのエミネム


Eminem(エミネム、本名:マーシャル・ブルース・マザーズ3世、Marshall Bruce Mathers III、1972年10月17日)

身長は173cmだ。映画やPVを見るともっと小さく見えるが173センチ。

1996年に自主制作アルバム『インフィニット(Infinite)』をリリース。ナズやAZの影響を受けたこの作品はあまり注目されず、70毎年しかうれなかったという。


これは意外だった。70枚しか売れないというのはエミネムにも下積み時代があったという証拠だ。


頭角を表したのは1997年、自主制作テープ「ザ・スリム・シェイディ EP(The Slim Shady EP)」が2万枚の売り上げを記録、ロスで行われたラップ・オリンピックに参加し準優勝した。


注目されつつあったエミネムは、翌日、西海岸のヒップホップ・ラジオ・ショー「フライディ・ナイト・フレイヴァス」に出演しフリースタイルを披露。

ヒップホップ界の大物であり名プロデューサーのドクター・ドレーに見出され、ドレーのレーベル、アフターマス・エンターテインメント(Aftermath Entertainment)と契約し、1999年に「ザ・スリム・シェイディ EP」をベースにメジャー・デビューアルバム『ザ・スリム・シェイディ LP(The Slim Shady LP)』をリリース。


米ビルボードチャートで最高位2位、いきなり全世界で600万枚を超えるセールスを記録し「グラミー賞最優秀ラップアルバム部門」受賞。
一気に スターダムにのし上がった。


2作目のアルバム『ザ・マーシャル・マザーズ LP』は2000年に発売。発売から1週間で179万枚を売り上げ、ソロシンガー又はヒップホップミュージシャンによるアルバムの世界最速最多売上記録としてギネスブックに認定される。


最終的に前作を遥かに凌ぐ1700万枚以上売り上げたが、収録曲「ザ・リアル・スリム・シェイディ(The Real Slim Shady)」では、歌詞にウィル・スミス、ブリトニー・スピアーズの名前が挙がり、訴訟騒ぎにもなる。





自身のアルバム制作以外では、地元デトロイトの仲間とともに結成したヒップホップ・ユニット、D12(ディー・トゥエルブ)に参加。

「ビッグになったらまた組む」とした盟友との約束を果たしている。2001年6月に発表されたD12のデビュー・アルバム『デビルズ・ナイト(Devil's Night)』は、初登場1位を記録した。



そして日本に最初のフリースタイルバトルのブームを巻き起こした!といっても過言ではない8mileが大ヒット!!




2002年、3作目のアルバム『ザ・エミネム・ショウ』の発売と相前後して半自伝的映画「8 Mile」に主演。


主題歌「ルーズ・ユアセルフ(Lose Yourself)」で2003年度アカデミー歌曲賞を受賞。



2005年8月、突如体調不良から公演をキャンセル。睡眠薬の過度服用及び依存症治療のための入院が原因とされ、2009年まで薬物依存症は克服できていない。 精神病院に強制入院させられ、閉鎖病棟に隔離されていた


2006年4月11日未明、地元デトロイトのナイトクラブで彼のユニットD12のメンバーであったプルーフ(Proof、本名:Deshaun Holton)が、口論の末、頭や胸に4発の銃弾を受け死亡する事件が起きた。エミネムは「プルーフが俺をプッシュしてくれたお陰で今の俺がいる。アイツがいなかったら今のマーシャル・マザーズはいないしエミネムも勿論スリム・シェイディも存在しない。(中略)アイツは俺の一番の親友だった…そしてこれからも。」とのコメントを残し、プルーフの葬儀では目を赤く腫らし泣いていた。その後、彼は腕にプルーフの名前をタトゥーとして入れている。

エミネムは数々の過激なパフォーマンスだが人情深く仲間思いの性格だ。


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その後もコンスタントに活動し、ヒット曲を数多く発表している。

エミネムはとにかくリリックを書く事で有名だった。レシートの後ろにも書くし映画8Mileでもあったがバスの中でもリリックを書いていた。

そういった日常の積み重ねが凄まじいライムの連打を可能にしているのだろう。




アメリカのヒップホップは圧倒的に黒人優位と言われていたが、白人であるエミネムがここまで成功したのは革命的であった。

人種は関係なくヒップホップは愛されていると証明したMCの1人である。



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タグ:Eminem
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最低限チェックすべきラッパー:F [HIP HOP]

ABC順で最低限チェックすべきラッパーを紹介している。


Fはフージーズ(The Fugees)だ  
アメリカの3人組ヒップホップ グループ。
1990年代半ばに人気を博した。

フージーズ
Fugees

ニュージャージー州サウスオレンジ
ジャンル ヒップホップ 

彼らの楽曲は、ヒップホップを中心として、そこにソウルやカリブ系音楽(特にレゲエ)の要素を取り入れている。



メンバーは、ラッパー/歌手のワイクリフ・ジョンがリーダーを務め、同じくラッパー/歌手のローリン・ヒル、そしてラッパーのプラーズ。ワイクリフ・ジョンとプラーズのルーツはハイチにあるが、ローリン・ヒルはニュージャージー州 サウスオレンジの出身である。

グループの名は、「難民(refugee)」に由来する。


アルバム第2弾『ザ・スコア』が、1996年最高の売上げを記録した1枚となった。

フージーズの特徴は、思いもよらないような曲をカバーしたり、珍しい音源からサンプリングをすることである。例えば、『ザ・スコア』の中には、ボブ・マーリーの「ノー・ウーマン・ノー・クライ」や、ロバータ・フラックの「キリング・ミー・ソフトリー(ウイズ・ヒズ・ソング)」(邦題「やさしく歌って」)のカバーが収められている。


ローリン・ヒルは、ソロアルバム『ザ・ミスエデュケーション・オブ・ローリン・ヒル (The Miseducation of Lauryn Hill)』が絶賛された。ワイクリフ・ジョンは、キャニバス、ディスティニー・チャイルド、カルロス・サンタナなどの数多くのアーティストたちのプロデュース活動を行いながら、自身のソロアルバム第1弾『カーニバル』を発表した。またプラーズは、マヤやオール・ダーティ・バスタードと共に、ウォーレン・ベイティとハル・ベリー主演映画『ブルワース』のサウンドトラック曲「ゲト・スーパースター」を発表した。互いにソロ活動を成功させていくにつれ、グループとして活動が難しくなっていく。メンバー同士の不仲説が解散理由として噂されているが、詳しくは不明。




2004年9月18日、ニューヨーク州ブルックリン区ベッドフォード・スタイベサント地区で開催され、映画『デイブ・チャペルのブロックパーティ』にその模様が収められているコンサートにおいて、フージーズが再結成を果たした。そのコンサートには、他にも、カニエ・ウェスト、モス・デフ、ジル・スコット、エリカ・バドゥ、ザ・ルーツ、タリブ・クウェリ、コモン、ビッグ・ダディ・ケイン、ビラル、デッド・プレズ、コディ・チェストナット、ジョン・レジェンド、セントラル州立大学の楽隊など、錚々たる顔ぶれが登場した。パフォーマンスの評価は上々であり、特にローリン・ヒルが殆どアカペラで歌い上げた「キリング・ミー・ソフトリー」が賞賛を集めた。チャペルは、映画を完成させるために、「ブロックパーティ・オールスターズ・フィーチャリング・デイブ・チャペル」の名で、2月〜3月にかけて、複数の都市での巡業を行った。また2005年6月28日、BET音楽賞の幕開けとして、12分間のパフォーマンスを発表した。彼らは新しいアルバムの製作に取り掛かっていると見られている。「テイク・イット・イージー」という曲がインターネットに漏洩し、結局、2005年9月27日、その曲が発売されるに至った。ビルボード誌のR&Bチャート40位まで上昇したが、その評価は厳しいものが多かった。2005年11月30日〜12月20日まで、彼らはヨーロッパ巡業を敢行した。これは1997年以来の初の巡業である。フィンランド、オーストリア、ノルウェイ、ドイツ、イタリア、フランス、英国、ベルギー、デンマーク、スウェーデン、スイス、スロバキアを巡った。2006年2月、ハリウッドで無料招待コンサートが行われ、ラジオ番組を通じて約8000人のファンが詰め掛けた。



フージーズのアルバム「the スコア」は必ずチェックした方がよい。



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最低限チェックすべきラッパー:D [HIP HOP]

最低限チェックすべきラッパー
今回はDから始まるラッパー。



DE LA SOULとDr.DREだ。

デラソウルは1989年にNYのロングアイランドで結成されたヒップホップグループ。

独自のユーモアセンスやサウンドを打ち出して行き、革新的な活動を続けてきた。

ヒップホップの新たな方向性を示した功績は大きくトラック作りにはファンク、ソウル、エレクトロニカ、ジャズなどのサウンドの要素を取り入れている。ニュー・スクールの代表的なグループとして知られ、現在のヒップホップに多大なる影響を与えた、斬新なサンプリングの手法が使われている。

メンバーは
ポス(Posdnuos)
MC プロデューサ

トゥルーゴイ(Trugoy the Dove)
MC プロデューサ

メイス(Pasemaster Mase)
MC プロデューサ DJ
の3人。デラソウルは昔からどこか知的でユーモアがあった。

愛嬌もあるし柔軟性もある。


その証拠に全員がプロデューサーとしても活躍できている。ラッパーはラップだけやればいい!とたまに豪語する屈強で偏屈なラッパーもいるが(それはそれでカッコいいが)デラソウルは単純に音楽が、ヒップホップが好きなのだろう。それが伝わってくる。
 
ロックバンドGorillaz(ゴリラズ)の2ndアルバム「Demon Days」からの楽曲「Feel Good Inc.」などで共演を果たし、グラミー賞では最優秀ポップ・ヴォーカル・コラボレーション賞の受賞を始め、数々の賞を獲得するなど大ヒットとなったことからもジャンルの垣根を関係なく音楽を楽しむ様子がわかる。


また日本の女性R&BシンガーDOUBLEとも「Say "I Gotta Believe!" featuring Double」で共演!アメリカのラッパーが日本人のシンガーとfeaturingするとはデラソウルの柔軟性がわかる。



まさにHIP HOP最低限チェックすべきラッパーである。



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次にDR.DRE
ドクタードレーはLA独自のスタイルを確立した人物と言っても過言ではない。

ドクター・ドレー(Dr. Dre)ことアンドレ・ロメル・ヤング(Andre Romel Young、1965年2月18日 )は、アメリカの音楽プロデューサー、ラッパー、実業家、俳優。


ヒップホップシーンで、最も影響力があり、最も成功し、最も有名なプロデューサーの一人である。
「ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も偉大な100組のアーティスト」において第56位。

アルバム『2001』は大ヒット!空前のドクタードレー旋風が巻き起こった。
日本のクラブシーンでもドレーの曲はかかりまくった!!
 
日本のラッパーにも影響をあたえており、ギャングスタラップを得意とするラッパーやG-funkをとりいれたラッパーは多かった。


またアルバム『クロニック』は、発表から4年間、ヒップホップ・ミュージックの主流となり、ウェスト・コーストのGファンクの起源として、ヒップホップに革命をもたらした。

近年は、ヘッドホンブランド「beats by dr.dre」を設立。

2014年、アップル社に現金と株式の合計30億ドル(3000億円)でビーツを売却、世界で最も高収入(630億円)のミュージシャンとなった。 

 
ラッパーとしては最初は評価が低かったが次第に上手くなっていった。骨太のラップは安定感がある。



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